チョコレートドーナツ』という邦題がついているこの映画。おいしそう?明るいイメージ?笑える映画?いえ、まったく違います。この映画ほど、人間が無意識で犯してしまう、悪意のない罪を思い知らせてくれる映画を私は知りません。

 

誰しも持っている偏見

ゲイ』や『ダウン症』という言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?

私の場合、
――それも人の個性だし、差別されるべきではない。

という優等生的回答が出てきます。

 

でも、これって本心ではないと思うんですよ。なぜなら、私はこの映画の評価の高さは知りつつも、「見たい!」という気持ちにはなかなかなれず、これまで避けてきたのだから。

これって、無意識に目を向けないようにしているということ。

 

例えば、『ゲイの人』と『ダウン症の子ども』が主役の映画と聞いて、「ぜったい見たい!」と心から思う人ってどれくらいいるんでしょう?全くいないとは言わないけれど、「見たい!」という人は少数派なのではないかという気がします。

映画『チョコレートドーナツ』はミニシアター作品だからなおさらです。

 

それでも、これだけ高い評価を得ているのは、私たちが無意識に避けてしまいがちなテーマを飾り立てることなく、真摯に描いているところにあると思うのです。

 

 

自分の偏見と思い込みに気づかせてくれる映画

唐突ですが、私はこの映画を最後まで観て気づいてしまったのです。

――ああ、自分は偏見を持っていたんだな

ということに。

 

『チョコレートドーナツ』を観始めて最初に思ったのは、「失敗したかな…観るのやめようかな…」でした。だって、主役のゲイはお世辞にもキレイなタイプではなく、どちらかというと男っぽい。女装姿が痛々しい。ゲイカップルのイチャつきも生々しい。

さらに、物語の要でもあるダウン症の子どもも可愛くはない。感動する映画につきものの、見目麗しい感じではないんです。

これが正直な感想。

書いていて、自分の偏見思い込みがよく分かってお恥ずかしいかぎりです…

 

でも、そんな感想は最初の20分ほど。あっという間に、この映画の世界観に引き込まれてしまいました。

ゲイのルディは最初の印象こそいかにもな感じなのですが、とても優しくて、愛情にあふれ、どこか哀しみをたたえた笑顔がとても魅力的なんです。情に厚くて、時には声を荒げて主張することもあるけれど、その人間らしさが人をひきつけます。

映画『チョコレートドーナツ』のあらすじ

ここでこの映画のあらすじをちょこっと紹介。

舞台は1979年のカリフォルニアが舞台。ゲイでダンサーをしているルディは、働いているゲイバーに来た検察官のポールと出会いいい感じに。浮かれた気分で帰宅するルディだけれど、翌朝、隣の部屋のシングルマザーが子どもを放置して帰ってきていないことに気づきます。このマルコという名の少年は、ダウン症で、ただじっと母親の帰りを待っているのです。

マルコを放っておけないルディは昨夜出会った検察官のポールに相談するも、周囲にはゲイであることを隠しているポールに冷たく突き放されてしまいます。しかたなくアパートに戻ると、母親はただ戻ってこないのではなく、薬物所持で逮捕されたらしく、子どもを引き取りに家庭局の人が。

なすすべなく、施設に引き取られていくマルコ。

最初に相談されたときに突き放してしまったことをポールは後悔し、ルディに謝罪をします。そこでお互いをさらに知り、惹かれあう二人が街で見かけたのは、施設から抜け出してきたマルコ。自分の家に帰ろうとするマルコの姿に、ルディとポールは何とかしてマルコを引き取ろうと手続きをして一時的な監護権を得ます。

ルディとポールは、普通の親以上にマルコのことを気にかけ、とても幸せな日々を過ごすのですが、あることをきっかけに家庭局が介入し、マルコは施設に逆戻り。マルコを取り戻すために、ルディとポールは裁判に挑むのですが…

 

というお話。

 

邦題は『チョコレートドーナツ』ですが、原題は『Any day now』(今すぐにでも)

  • 今すぐにでも、助けたい
  • 今すぐにでも、会いたい
  • 今すぐにでも、一緒に暮らしたい
  • 今すぐにでも、こんな世の中を変えたい
  • 今すぐにでも、家に帰りたい

この映画は本当にたくさんの『今すぐにでも』が溢れています。

 

ある要素を省けば、ネグレクトされているダウン症の子どもを、あるカップルが引き取りたいと言っているというだけの話。

それだけなら、世間的にも「あのカップルは偉いわよね」と言われそうな話なのだけど、そこに『ゲイのカップル』という要素が加わると全く逆の反応になるのが不思議ですよね。

偏見が目を曇らせる

 

――ゲイのカップルだから子どもに悪影響があるんじゃないか?

――少年に変なことをするんじゃないか?

 

そういった偏見が幸せに暮らす3人を引き裂きます。それでもルディとポールは諦めずに裁判で戦おうとするのですが、そこでも重視されるのは3人の絆や生活環境ではなく、ルディとポールの関係について。

 

おそらく現代でもそういった偏見や思い込みは多いのだろうけど、この映画の舞台は1970年代。なおさらゲイというマイノリティは受け入れられづらい。

 

裁判で検察官が「そういった性癖の悪影響が」という言葉を口にする場面があります。そんなことをいったら、ゲイに限らず、男女のカップルでも、幼い女の子にいたずらするような人もいるし、逆もしかり。ゲイと性癖は違うものですよね。これもまた間違った思い込み。

 

大事なのは、少年マルコ本人が「ルディとポールがいる家に帰りたい」と言うほどに絆を感じているという点にあるのに、ゲイに対する偏見ばかりが目についてしまい、論点がどんどんずれていきます。

 

見ていてとてももどかしいのだけれど、じゃあ自分が同じような状況を目にしたら、偏見なしに判断できるかといったら全く自信はありません…

心の穴が満たされるとき

裁判のなか、感情的になったルディがこのような発言をします。

「私たちが引き取らなかったら、マルコはずっと施設で暮らすことになる。だってマルコは見た目も太っていて、ダウン症を抱えているのだから。里親に選ばれるのは、健康で見た目の良い子ばかり。マルコが選ばれることはない。」

この言葉を聞いて、「そんな言い方酷くない?」と思うのなら、それは単なる偽善なんですよね。実際、私も一瞬ひどすぎるのではないかと思ったけれど、ルディが言っていることが現実なのだから。

マルコはきっと誰にも引き取られない。

母親が戻っても、またネグレクトされる。

マルコのような子を育てるというのはとてつもない覚悟愛情が必要だと思うんです。私も子どもを出産するとき、少なからず、生まれてくる子に障害はないか?あったらどうする?なんてことを考えた事があるのだけれど、やはりお腹を痛めて生んだとしても、障害がある子に愛情を注げるのかとても自信がなかったしね。

実の親でもそうなのだから、現実問題、血のつながりがないのにあえて障害のある子を引き取ろうとする人は稀有な存在でしょう

でも、ルディ、ポール、マルコの3人は血のつながった家族よりも家族らしく、それぞれが抱えていた心の穴も、一緒に暮らすことで満たされていきます。そんな、ぽっかりと空いた心の穴が満たされるような幸せな生活と、マルコが大好きなチョコレートドーナツから、この邦題がつけられたんでしょうね。

 

でも、観終わって思ったのは、マルコやルディ、ポールのような差別や偏見の対象となるような人たちの存在もまた、世間にぽっかりと空いた穴のような存在だなということ。

望んでも、人並の生活や幸せを得られない人たちがいる。

その人個人の努力が足りないわけでも、悪いことをしているわけでもないのに、もって生まれたものが原因で辛い目に合う。

ついつい、目をそらしたくなる現実だけれども、この映画はそんな大切なことに気づかせてくれる、とても良い映画でした。

 

この映画のクライマックスは突然、静かにやってきます。こちらの予想を裏切る、とても衝撃的なラスト。

 

ゲイやダウン症というワードだけで判断せず、ぜひ多くの人に見てほしい良作です。